第40回 旧粕壁宿史跡めぐり(25名参加) |
2017年4月7日(金)
東武スカイツリーライン春日部駅の東口側、日光道中4番目の宿場、旧粕壁宿を春日部観光ボランティアの方のご案内で歩いた。
初めに春日部の代表的な産業の一つである押絵羽子板のギャラリー(ショールーム)に立ち寄り、経営者の方からお話を聞く事が出来た。大小や使う布地の違いで数千円程度のものから100万円以上のものまで、多数展示されていた。
史跡を見て周る前に郷土資料館に行き、江戸時代末期の粕壁宿全体を再現した模型の前で学芸員の方から宿場の様子、春日部・粕壁の表記の変遷についての説明を受け、往時の様子を写した貴重な写真なども見せてもらって宿場の概要を知る。本陣や脇本陣、問屋場は今は残っていないが、どういうわけか現在は銀行が建っている場所がそうだとの事だ。群馬銀行の場所が本陣、筑波銀行のところが脇本陣、埼玉りそな銀行が問屋場だそうだ。偶然にしては面白い。
松尾芭蕉が奥州に旅立った折に、泊まったとされる東陽寺に立ち寄り、元荒川沿いの満開の桜の下をしばし歩く。
春日部も浦和と同様に宿場町の面影をも残すものが少ないが、所々に歴史を感じさせる立派な蔵や店舗があり、屋根には守り神の鍾馗(しょうき)様が乗っている店もあった。
最後に春日部重行公の墓がある最勝院に立ち寄る。境内の桜は満開、記念写真を撮って終わり、昼食先へ行く。歩き始めたときは雨が降りそうな空模様だったが降られることなく終える事が出来た。
『季寄せ料理 暖歩』にて
第39回 旧品川宿史跡めぐり(22名参加) |
2017年3月3日
春三月、東京は16度と四月並みのポカポカ陽気。風も無く快適な日和。
今回は旧東海道最初の宿である品川宿をガイド会の案内で散策した。京急・北品川駅前の御殿山は台場埋め立てに切り崩した山が丘に変貌の由。旧東海道はJR線から離れた為、道幅(6m)の街並みは当時のまま保存。すぐに井伊直弼が開基と言われる一心寺に。唯一海側に建立された品川不動。
台場横丁を入ると船だまりが有り、釣り船や屋形舟が係留され当時の漁港は今ははぜ釣り、花見が楽しめる様だ。近くにある砲台(台場)跡には石垣に使用した真鶴石だけ残されているが、ペリー来航時には幕府は必死の防御の為の築造で有った事だろう。
品川本陣跡は明治元年明治天皇が21日掛けて下り、品川宿に泊。翌日盛大な出で立ちで江戸城に入ったとの記録が有る。都は京から江戸に遷都した。
この近くの荏原神社には天皇行幸の際の内侍所が置かれた。
目黒川を渡り街道を進むとすぐに品川寺(ほんせんじ)。江戸六地蔵の一つで浄財を出した庶民の名が台座に刻印されている。ここには「洋行帰りの梵鐘」があり、パリ万博で行方不明の鐘が昭和五年にスイスで発見され戻された由。
ここより大井町駅前に移動し、「瑞花」でひな祭り日らしい御膳を頂き無事浦和で解散した。
第38回 旧千住宿(北千住側)史跡めぐり(24名参加) |
2017年1月27日(金)
日光街道一番宿の千住宿地域は隅田川を挟んで南北に広がっている。今回は京成線千住大橋駅から北千住駅方向をガイドをお願いして実施した。
まず向かったのは千住大橋のたもとにある「奥の細道矢立初めの地」碑を訪れた。近くの橋戸稲荷神社も寄る。拝殿は蔵のような作りで扉の内側には伊豆長八によるお狐さま親子の鏝絵が施されているとのこと。実物は見る事が出来ないので表にレプリカが置かれていた。
交通量の多い日光街道を渡り、足立市場(鮮魚市場だが、元は野菜市場で特に千住ネギの取引が有名だった)脇の旧日光街道に入って、元やっちゃ場の問屋街を歩く、両側には仲買商、投師(他の市場へ転売する仲買人)、車茶屋(大八車の置き場、お茶も提供していたとのこと)などが軒を並べていたようだ。今は当時の屋号や説明などを記載した手作りの看板が掛けられ、当時の賑わいが想像できる。
この後、源長寺で千住大橋、掃部堤を作り、掃部宿を開いた石出掃部亮(いしでかもんのすけ)について説明を聞いた。
続いて問屋場跡、貫目改所跡、レンガ造りの本堂で徳川家とつながりのある赤門寺の勝専寺、高札場跡、古い洋館作りの大橋眼科、本陣跡、見番横丁、紙問屋の横山家住宅、絵馬屋の吉田家、日光街道と水戸街道に分かれる追分地点、骨接ぎで有名な名倉医院などを周って昼食処に向かい、今日の史跡めぐりを終えた。朝の内は肌寒かったが、日差しが出ると暖かく穏やかな一日でした。
第37回 護国寺から江戸川橋まで史跡めぐり(23名参加) |
2016年10月28日(金)
護国寺の仁王門でガイドの方と待ち合わせてスタート、まず不老門前の36段の階段を登り、本堂内を拝見する。本尊の如意輪観世音菩薩(桂昌院の念持仏とされる)は秘仏とあって拝見することはできなかったが、左右には多数の仏様を拝見する事が出来た。この本堂は都内で最大の木造建築物とのこと。本堂の右手から裏手の墓地を周って三条実美、山県有朋、大隈重信、鹿鳴館やニコライ堂などを設計したコンドルなど歴史上の著名人の墓石を巡った。この他には境内には茶室が九つもあり、「茶室の本山」と自負しているとのこと。
護国寺を出た後、音羽通り出て講談社本館前を過ぎて右折、目白台を登って聖マリア大聖堂へ向かう。音羽通りと目白台との標高差は20mあるとのこと、今回はあまり急激に登らないですむコースを設定していただいた。
聖マリア大聖堂につくと幸運にもパイプオルガンの演奏行われており、しばし椅子に座って荘厳な曲を聞き入った。この教会は正式にはカテドラル関口教会聖マリア大聖堂とのこと。大聖堂を出て奥にあるルルドの洞窟も拝見した。
教会を出た後は椿山荘のわきの目白坂を降りて江戸川橋駅まで行き、ガイドの方がへお礼をして江戸川橋駅に向かう。護国寺を見学しているときにポツポツ程度の雨にあったが、天気がなんとか持って助かった。この後、神楽坂で昼食をとって帰途についた。
第36回 行徳史跡めぐり(28名参加) |
2016年9月23日(金)
9月はこれまでお天道様に会えたのは2日間のみ。今日も諦めていたが、雨は降らず天の恵み。
今回は天領として製塩で栄えた行徳近辺を散策した。
行徳塩田は下総国(千葉県)行徳に設置された塩田。籠城に備え、塩が大重要視された為だが、近年まで大規模に製塩が行われていた。
東西線妙典駅でボランテイアガイドさんと合流し、先ずは成田道に入る。
江戸時代に成田山参詣への道として利用された街道だが、今は行徳バイパスがメイン道で交通量も多い。
ここより徳願寺を拝観。徳川家康の帰依により栄えた古刹。
安置されている「阿弥陀如来像」は徳川家の物で国宝級の彫り物らしいが、秀忠夫人(お江)逝去後にここへ移された由。
ここからは「権現道」と言われる家康が歩いた道が残されて居り、この曲がりくねった路地(関西風に言えば“ろうじ”)の様な道を散策。ガイドなしでは歩けない。
塩田地区ながらこの辺りは寺町と言われる程、お寺が多い。
水上の船着き場には当時の大きな常夜燈が残されて居り、水運の安全祈願の役割か。
ここで乗船までの腹ごしらえに食べた笹谷うどん屋の家屋が今でも残されて居る。
この水路も明治になって総武線(総武鉄道)が出来、水運から陸運への移行がなされ、行徳の町も寂れていった由。
出発の妙典駅、帰着の行徳駅、何れも仏教に起因する地名で色々歴史を学んだ。
駅前の江戸前「石亭」で美味しい食事を堪能し、帰路に付いた。
第35回 旧板橋宿史跡めぐり(26名参加) |
2016年6月24日(金)
北九州で大雨を降らせている活発な梅雨前線は幸いにも今日の東京では中休み。
今回は中山道六十九宿の一次板橋宿(上宿、仲宿、平尾宿)を散策。
板橋本町駅から5名のガイドさんに案内され、旧中山道に入る。
先ずは皮を割いて酒で飲むと「別れられる」と信じられた「縁切り榎」。
「皇女・和宮」ご降嫁の道中の際には菰で覆って隠した由。
続いて上宿で一番賑わった「板橋」へ。石神井川に架かる板橋の川沿いは桜並木で春には爛漫だろうね。
仲宿に入り「仲宿脇本陣跡」の飯田家の屋敷跡。現在は飯田家の大きなマンションでガレージには高級外車がズラリ!本陣跡も飯田家の不動産ばかり。当時の名主の大きな権益が窺える。
更に「平尾宿脇本陣」を通り、「観明寺」に。江戸名所図会にも見られる古刹。「青面金剛像」や加賀藩の赤門を見る。東大の赤門と関係有りや。
最後に「近藤勇の墓」に参拝。板橋の刑場で斬首されたが、近くの刑場跡は現在八百屋さんが商売をして居る。ガイドさんも気を遣って説明はパスして居る。店を覗かれたら商売は出来ないだろうな。
ここから荒川を渡ると「蕨宿」更には「浦和宿」「大宮宿」と続くが何れも史跡巡りで訪れた宿。中山道の江戸に近い宿を大分学びました。
降雨前に無事浦和駅で解散。
第34回 豪徳寺から松陰神社史跡めぐりと総会(33名参加) |
2016年5月27日(金)
今回の行事は昨年のNHK大河ドラマ“花燃ゆ”で人気スポットだった
松陰神社を巡る世田谷ツアーを実施。
朝から生憎の雨。小田急・豪徳寺駅で3名のガイドさんと合流。
先ずは源義家公が「後三年の役」の帰途立ち寄ったと言う世田谷八幡宮に。
ここで義家公が雨宿りをしたとの説明。雨の中我々も軒下に移動したいな。
次に井伊家菩提寺の豪徳寺へ。新緑が映えどっしりとした名刹の雰囲気。
井伊家初代の直弼公の墓も有る。ここは猫にまつわる話が有り、猫に招かれて雷雨を免れたのが始まりとか。
「招き猫発祥の地」を謳っているが浅草今戸神社もウチが発祥と対抗している。ハテ。
数千体の招き猫が置かれているが、右手の猫ばかり。奉納する人は金の亡者?
三重の塔の彫刻の干支も子(ねずみ)の代わりに猫が彫られ徹底して居る。
彦根の人気ゆるキャラ「ひこニャン」はここの猫に由来しているってホント?
ここから雨も上がり天然の要塞だった世田谷城址公園を抜け松陰神社へ。
珍しい「木瓜に卍」の家紋が有る鳥居を潜り本殿に。今日は偶然「月命日」。
松陰以外に青雲の志士の墓も有るが質素。教え子達がひっそりと埋葬した様。
昼食を摂りながら、「平成28年度総会」を実施。
① 27年度会計報告(傷害保険は10月に報告) ②28年度役員体制と班編成の説明 ③28年度行事予定の説明 ④実施したアンケートの結果報告等を行い何れも了承を得た。
目青不動尊を参拝後、レトロな雰囲気の三軒茶屋を通り、無事浦和で散会。
第33回 見沼たんぼ散策 (20名参加) |
2016年4月1日(金)
花見と言えばサクラ。サクラと言えば気象協会の「開花宣言」をテレビ局が大マジメに報道する。日本特有の季節の便りかな。
今回の史跡めぐり行事は満開の桜の下、三度「浦和ガイド会」のお世話に成り見沼たんぼ周辺の史跡を散策した。
先ずは350年ほど前の氷川神社旧社を移設した大間木氷川神社へ。流れ造りの本殿が優雅。更に近くの清泰寺に。たくさんの庚申塔がやたらと目に付くが本来、道端の道標と思う庚申塔がなんでこんなに集められて居るのか?
この寺には見性院(信玄の娘とか)の墓も有るが、やや寂しい佇まいだ。
ここから芝川を挟んだ通船堀と船の差配役の鈴木家住宅を見学。個人宅なので自由には入れない裏庭で「ひらた船」の模型を見る事が出来、往時の米輸送の活況を偲ぶ。
八丁堤から竹の子、ダイコンの花、土筆を見乍ら水神社を通り木曽呂富士塚へ。
霊峰富士山に憧れた当時の人々の信仰が籠められた塚に登った後、10年前に皇太子殿下がここを訪れ、食事をされた食事処で昼食を摂る。
身近な見沼代用水が歴史的にも干拓と治水、更には重要な運河の役割が有った事を改めて知る機会と成った。
再び桜並木を通り東浦和駅前で10数人のお仲間と喉を潤して無事散会した。
第32回 湯島聖堂とニコライ堂史跡めぐり (31名参加) |
2016年1月15日(金)
8:55浦和駅3番線ホームに集合、御茶ノ水駅までは上野東京ライナーと中央線を乗り継いで40分程度で到着。今回のガイドは文京まち案内の方々にお願いした。
駅前聖橋側の 横断歩道を渡って直ぐ聖橋の袂の木に括り付けている簡易な神棚があった。説明書きには外濠を開削する際に江戸城の鬼門の護りとして『一口(いもあらい)太田姫神社』を江戸城内からここに移した記されていた。説明を聞かなければ通り過ぎてしまった史跡である。(神社名の由来はあるが長くなるので省略。ご興味のある方はインターネットで検索してみて下さい。)
聖橋を渡って『湯島聖堂』に行く。元は上野忍ヶ岡にあった孔子廟を五代将軍徳川綱吉が 儒学振興を目的にこの地に移したのが始まり、『昌平坂学問所』、明治になると大学校と改名、その後この地は国立博物館、東京師範学校、書籍館、東京女子師範学校などが置かれていたが関東大震災で殆どの建物が焼失、現在の建物は昭和10年に再建されたものとの事。
神田明神入口の鳥居脇に建つ老舗の甘酒屋さんは地下に多数の室を掘って麹を作っていたとの事。随神門の前で左大臣と右大臣の配置と位の上下関係について説明を聞き、 いよいよ本殿に向かう。1月もすでに半分を過ぎたというのにまだまだ新年のお参りに来る人の姿が多いのにはびっくりした。先ずは本殿に行きお参りを済ませ、神田明神社と右脇の珍しい獅子山(3頭の獅子と滝)の説明を聞く。
万世橋に向かう。今は万世橋をまんせい橋と読むが、昔はよろずよ橋と呼んでいた時期があったとか、またここには昔レンガ造りの立派な駅舎を要した駅があったとの説明があった。今は旧東京交通博物館の跡地利用を同時に元の階段、プラットホーム、壁面の一部が遺構として保存され、同時に線路下の赤レンガ造りの連続した高架橋内部にはオシャレな店舗(マーチエキュート神田万世橋)が出来た。
昼食後、お茶の水駅前のニコライ堂に行き、内部に入ってガイドの方から歴史、建物、イコン、祭壇が西向きになっている事、それにハリストス正教会について説明を受けた。建物の中に入ると厳粛な雰囲気に包まれ、神社仏閣とは違った雰囲気を経験した。説明を受けている最中も外国の方が何人かお祈りに来ていた。
寒い冬の一日、参加者の皆様お疲れ様でした。
第31回 目黒不動尊と林試の森公園散策 (25名参加) |
2015年11月27日(金)
北日本と北陸が大荒れ、東海が強風の天気の中、東京だけが小春日和に恵まれた。
今年の初春に予定していた目黒の七福神めぐりが大雪で中止になり、今回は「林試の森」を含めて再度の散策を実施した。
先ずは「蛸薬師」と言われる成就院に。デキモノを吸い出す謂れから「がん治癒願」の絵札が一杯連なって居る。切実な願いだ。
続いて日本三大不動尊の一つ、「目黒不動尊」を参拝。1200年の歴史が有り、ご尊像は秘仏とか。秘仏と聞くと見てみたいな。
江戸時代、この辺りは鷹狩りが行われて居た狩猟場でここを訪れた三代将軍徳川家光との関わりが近辺の寺院にいくつも伝承されて居る。
ここから近くの広大な「林試の森公園」に移動。明治中期に「目黒試験苗園」として設置されたが、以降幾多の変遷を経て現在試験場跡が「林試の森」で市民の憩いの場。
広大な森は林業試験場当時の樹木がそのまま残されて居り、ケヤキ、クスノキ、スズカケ等の巨木が立ち並び、散策は気持ちが良い。
森の紅葉を期待したが、ここも御多分に漏れず遅れて居る様。残念だ。
食後は東京一長いといわれる「武蔵小山商店街」で買い物を楽しんで貰おうとフリー行動とした。
「重盛人形焼き」を買ったかな。
第30回 高幡不動尊と土方歳三史跡めぐり (26名参加) |
2015年10月30日(金)
南浦和駅に集合、武蔵野線、中央線、多摩モノレールと乗り継いで万願寺駅で下車。5分ほど歩いて土方歳三資料館着く。
資料館は新撰組副長として歴史に名を遺した歳三の生家の地に建ち、今は住宅の一部を資料館として運営している。はじめに館長の土方さんから展示資料の概要説明を受けた後、じっくり資料を見学、館内には箱館戦争まで使っていた愛刀の和泉守兼定や土方家の副業として製造行商販売をしていた『石田散薬』(頓服薬)に関わる資料、意外なのは俳号を豊玉として詠んだ自筆の俳句集、剣法の天然理心流の免許皆伝の証の目録、柄に「義」と彫り込まれたいかにも重そうな木刀、池田屋に切り込んだときに身に付けていた鎧帷子などが展示されており、非常に興味深い。
次に歳三の墓がある石田寺に向かう、道々「土方」姓の表札があちこちに見られた。石田寺の墓地を見学、どっちを向いても土方姓の墓石が多く、この地域に土方姓を名乗っていた人が多かったことが分かる。
石田寺を後に近くを流れる浅川の土手を歩き、モノレールの下にかかる橋を渡り、途中向島用水親水路を通って高幡不動駅の南側にある食事処に向かう。
昼食後、関東三不動の一つ名刹 高幡山金剛寺(高幡不動尊)に参拝、境内は菊祭り開催中で賑わっていた。土方歳三像の前で記念写真に収まり、名物の饅頭を買って帰路に就いた。秋らしい一日を過ごしました。
第29回 市ヶ谷ツアーと九段下の散策 (44名参加) |
2015年9月25日(金)
今年は戦後70年の節目の年。
今国会では「自衛隊出動」に絡む新たな法案が、国論を二分して激しい論争が行われた。
今回の史跡めぐりは「戦争史跡」を訪ねる「市ヶ谷記念館」・「国立昭和館」見学を開催した。
校友会メンバーにも案内するオープン形式に多数のご参加希望を頂き、急遽 班を午前組・午後組に分けて実施。
防衛省内への入場は厳格で見学と言えども事前の届け出名簿を基に持参した身分証明書で一人ずつ本人確認を受ける。
誘導・案内は「並んで」「前へ」「止まって」と大声で制せられ、軍隊式(?)の命令口調。些かやり過ぎじゃない?
省内見学の口調はソフトながらも5~6名の広報隊員に護送船団の包囲網で引率。
見学のメインは「市ヶ谷記念館」。
歴史の変遷を辿れば「尾張藩上屋敷跡(江戸城の守り)」→「大本営陸軍部、参謀本部跡(戦争指導の中枢)」→「戦勝国の法廷(東京裁判)」と移り変わる。
ここでの“無条件降伏受諾”までの顛末や“東京裁判”の実情は幾多の本や映画に残されて居る。
記念館内部は天皇が使われた大講堂の重厚な造りがそのまま保存されている。
付帯しているバルコニーは1970年(昭和45年)の“檄文”三島由紀夫事件が記憶に新しい。
午後は雨の為「靖国神社」参拝を諦め、「国立昭和館」に移動。ここでは戦中・戦後の暮らしを次世代に伝える国立の施設。
ガイドさんの案内で昭和10年頃~昭和30年頃までの様々な資料が観られ、我らシニアの世代には郷愁と追憶の空間。「疎開した」「防空壕に入った」「米つきをした」等思い出が口に出て来る。平和は大切と改めて思う。
夕方、午前組・午後組共に浦和駅で無事解散した。
第28回 草加宿史跡めぐり (23名参加) |
2015年6月26日(金)
梅雨の最中、旧日光街道の宿場町草加宿と名勝「草加松原」の散策を開催。
草加駅より5名のボランテイアガイドさんの案内で旧日光街道を歩く。
残されて居るいくつもの旧家を見て行くが、「匂い百選」にも選ばれたと言う「せんべい」を焼く匂いがあちこちに漂う。
草加は「草加せんべい」のイメージが強いが、実際には松尾芭蕉が弟子河合曽良を伴って旅立った「奥の細道」の宿場として、また後年正岡子規や高浜虚子が吟行したと言われる「草加松原」の文学的知名度を市としては積極的にPRをしている。
芭蕉が奥の細道に旅立つのに決死の覚悟で有った事は「月日は百代の過客にして・・・」の漂泊の思いに込められて居る。
ガイドの方の一か所も漏らさず懇切丁寧な案内ぶりは、予定の大幅な遅れになりこれもご愛嬌。
食事処の大広間で昼食後、女将の好意で部屋の「カラオケ」が使える事に。
場は一転して賑やかな宴席に代わる。いやまあ~メンバー各位の役者揃い。
「学習」と「梅雨憂さ晴らし」の一日でした。
降雨の前に東浦和駅で無事解散した。
第27回 王子から旧古河庭園散策と総会 (27名参加) |
2015年5月22日(金)
王子駅から向かった北区飛鳥山博物館では学芸員のガイド付き。飛鳥山は東京低地との境界、武蔵野台地の北端に位置する。低地部分は、数千年前は縄文海進により東京湾を形成していた。故に貝塚が多く、中里貝塚の貝層剥ぎ取り見本が展示されている。周辺からは石器・土器が出土し掘れば出てくる状態だとの説明を受けた。多分ゴッドハンドの持ち主でなくてもお宝に当るかもね。またご存じ桜の名所。八代将軍吉宗はここに桜を植樹し一般庶民に開放した花見のメッカ。当時のレシピで花見弁当が再現されており、その豪華さに感嘆の声。幕府財政多難の折、遊興で消費を図ったなんて粋な将軍。
次いで御成り道(本郷通り)に沿って歩き、途中には西ケ原の一里塚。東京市電の軌道敷設で撤去されそうになったのを渋沢栄一らが守った一里塚。しかも貴重な左右二本の木立が残る。
平塚神社。八幡太郎義家が奥州征伐から凱旋途中に立ち寄ったことに始まる。八幡太郎義家命が主祭神。
旧古河庭園。武蔵野台地の斜面と低地をうまく利用したこの地は、明治の元勲陸奥宗光の邸宅があった。宗光の二男が古河財閥の養子になったときに古河家の所有になった由(但し当時の建物は現存していない)。低地から見上げるジョイア・コンドル設計の洋館建ての景観は秀逸。薔薇の盛りは過ぎたものの薔薇の数より多そうな観光客にはびっくり。集合写真も人通りに遠慮しながらパチリ。
総会は駒込駅に近い磯太郎で開催。食事は美味しく和気藹藹のなか、26年度会計報告、27年度班体制・活動計画がめでたく承認された。
史跡班のますますの繁盛と、皆さんの健康を祈念して三本締めでお開き。
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